歴史の舞台「鈴鹿川」


 歴史・文化的に見ると、古くは鈴鹿山脈において日本の東西が分けられ、その各峠は奈良・京より東海、東日本への出入口となっていました。鈴鹿川沿いには、古くより川が穿った渓谷を利用して道が作られ、それは「鈴鹿越え」、「加太越え」、「安楽越え」と言われ、奈良・京の都、畿内と東海、東日本をつなぐ交通の要衝であったとともに、歴史を織り成し、その舞台となった川であったともいえます。
 
 律令体制化においては、国の政庁である「国府」が鈴鹿川南岸に置かれ(現、鈴鹿市国府町)るとともに、北岸には「国分寺」が建立され(現、鈴鹿市国分町)、鈴鹿川流域は奈良・京都の政権にとり伊勢神宮を含む伊勢全域支配の拠点地域として古来より極めて重要な地域でありました。 
 
 神話の世界ではヤマトタケルノミコトが伊勢神宮に参り、弟橘姫とともに東国へ赴き、帰路、鈴鹿川流域の能褒野で息絶えたとされています。
 壬申の乱(672年)では大海人皇子(おおあまのおうじ・後の天武天皇)が吉野から「加太越え」をして鈴鹿に入ったと日本書紀に記されています。
 戦国時代には、明智光秀が織田信長を討った本能寺の変(1582年)の直後、徳川家康が大阪、伊賀から加太峠を越え、白子港から岡崎へ戻ったとされる、いわゆる「伊賀越え」の舞台ともなりました。 その翌年には、明智光秀を打ち破った木下藤吉郎秀吉が、北陸の柴田勝家に同調した滝川一益を討つために「安楽越え」をし、加藤清正らとともに鈴鹿に入り、桑名で弟・秀長の軍と甥・秀次の軍と合流し、一益の本拠である木曽川河口の長島を攻めました。
 一方、よりいっそう興味深い点は、平安時代以降、伊勢へ向かう斎王の一行が、鈴鹿峠を越え、鈴鹿川上流部から川沿いに下り、鈴鹿川の水に袖を濡らしながら、川を渡っていきました。どういった川でも上流域は山を縫って流れるため蛇行するのは当然ですが、川の最上流域を見ることのなかった当時の京の貴族は、伊勢行きでのみ川で蛇行を見ることとなったのかもしれません。そういった当時の貴族から、鈴鹿川といえば「八十瀬」という言葉に喩えられ、蛇行する川の代名詞とされてきました。穏やかに蛇行するその流れは、万葉集に「鈴鹿川八十瀬渡りて誰が故か夜越えに越えむ妻もあらなくに」(巻十二、作者不詳)のほか、多くの歌に詠まれています。
 
また、江戸時代に整備された五街道のひとつ東海道では、鈴鹿川と滋賀県の野洲川のみが、川に沿って整備されており、西から坂下、関、亀山、庄野、石薬師という5つの宿場町(野洲川沿いには西から石部、水口、土山宿)が約30kmにわたり鈴鹿川沿いにおかれ、まさにその地理的条件と鈴鹿川の恵みが生み出した地域でもあります。現在でも国道一号線、JR関西本線、名阪自動車道などの東西をつなぐ交通の動脈が鈴鹿川水系の穿った渓谷を利用し作られ、交通の要衝となっています。


 
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