万葉集や和歌に詠まれる鈴鹿川



万葉集


 万葉集第12巻

 
鈴鹿川 八十瀬(やそせ)渡りて 誰がゆゑか 夜(よ)越えに越えむ 妻あらなくに


原文
  
鈴鹿河 八十瀬渡而  誰故加 夜越尓将越 妻毛不在君

意味

鈴鹿川のいくつもの瀬を渡って、誰のために夜に越えてなど行くものでしょうか、妻もいないのに

作者

不明(旅の人が詠んだ歌)
     



コメント
 鈴鹿川は、万葉集で「八十瀬」と詠まれ、蛇行する流れに数多くの浅い瀬を持つ川として表現されている。
 その後の和歌においても、「鈴鹿川」と詠めば「八十瀬」となるほど頻繁に引用されている。
 特に、京の都から伊勢に下向する斎宮やその女御にとり、鈴鹿峠はほぼ行程の半分にあたり、また伊勢国衙などに出向く人々とともに、まさに異郷の地への関門であったと考えられる。京への思いを絶ちつつ峠を越え、ほぼ鈴鹿川の源流部から中流域まで曲がりくねった川に沿って延々と下り、幾度となく袖をぬらしつつ川を渡り、伊勢へ向かったのであろう。
 通常、どういった川であっても、上流部であれば谷に沿って蛇行し、数多くの瀬があるものであるが、なぜ鈴鹿川で特にそういった表現をするようになったかは、京から東行するメインルートが鈴鹿川に沿って開かれていたことと、斎宮の伊勢下向が大きな要因と考えられる。当時、そのような場所を斎宮などの貴族・役人が通る所といえば、京から伊勢に向かう鈴鹿峠からのルートが最も代表的なものであったのであろう。


和 歌

 
  源氏物語 (賢木) <第5段 斎宮、伊勢へ向かう>

 ○ 斎宮に伴い伊勢に向かうに六条御息所に対する、光源氏の贈歌
振り捨てて 今日(けふ)は行くとも鈴鹿川 八十瀬の波に袖は濡れじや

意味 私を捨てて今日は旅だって行かれるが、鈴鹿川を渡る時に袖を濡らして後悔なさいませんでしょうか。


 ○ 光源氏の贈歌に対する六条御息所の返歌
鈴鹿川 八十瀬の波に濡れ濡れず 伊勢まで誰れか思ひおこせむ

意味 鈴鹿川の八十瀬の波に袖が濡れるか濡れないか、伊勢に行った先まで誰が思い起こして下さるでしょうか。




撰集:新勅撰和歌集   詠人:藤原俊成

ふりそめて 幾日(いくか)になりぬ鈴鹿川 八十瀬もしらぬ五月雨の比
後法性寺入道前関白百首歌よませ侍りける時、五月雨をよめる


撰集:玉葉和歌集(十五雑)   詠人:奨子内親王

鈴鹿川 八十瀬の波はわけもせで わたらぬ袖のぬるゝころかな


撰集:続古今和歌集(十羇旅)  詠人:式乾門院御匣

都いでゝ 八十瀬わたりし鈴鹿川 むかしになれどわすれやはする


撰集:詞花和歌集(巻第二)   詠人:皇嘉門院治部卿
題不知
五月雨(さみだれ)の 日をふるままに鈴鹿川 八十瀬の波ぞこゑまさるなる


梁塵秘抄口伝集(巻第十二(その三)

鈴鹿川 八十瀬の滝を皆人の 賞(め)ずるも著しく時に会える時に会えるかも


詠人:後鳥羽院

鈴鹿川 ふかき木の葉に日数へて 山田の原の時雨をぞきく


詠人:前大僧正隆弁  (茅窓漫録)

七十の 年ふるまゝに鈴鹿川 老の浪よる影ぞかなしき


 鈴鹿川の川という字は、参照先により「川」、「河」に分かれているが、ここではですべて「川」の字をあてている。


 参考  (鈴鹿山)

撰集:拾遺和歌集(八雑)  詠人:黴子女王(斎宮女御)
     (斎宮女御集)                              
世にふれば またも越えけり 鈴鹿山 昔の今に なるにやあるらむ


  詠人:規子内親王  (斎宮女御集)

鈴鹿山 しづのをだまきもろともに ふるにはまさる ことなかりけり



※ 参照  HP 「源氏物語の世界」    渋沢栄一(高千穂大学教養部教授)
        HP 「たのしい万葉集」 
        HP 「GLNからこんにちは」 (和歌集成)
        HP 「やまとうた」  (千人万首)   水垣  久
        HP 「古典文学の村へようこそ」 (和歌の家)(詞花和歌集の家)
        HP 「歌碑ガイド」  (財)国史跡斎宮保存協会
        HP 「梁塵秘抄口伝集」



 もどる